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太宰治賞選評
→http://www.chikumashobo.co.jp/dazai/24senpyo/ogawa.jsp
しかし、四作を読み終え、いざどれに丸をつけようか考える段になって、困ってしまった。手にはサラサラと砂がこぼれ落ちたような感触しかなく、鋭く皮膚をえぐる傷跡も痛みも、そこに残されていなかった。もしかすると私自身気づかないまま、皮膚の奥で浸み出した血が、魅惑的な模様を浮かび上がらせているかもしれないと、掌をじっと見つめてみたが無駄だった。私の掌は無傷だった。そんな物足りなさを拭えないままに、選考会は終ってしまった。
自分の書いてるものは、砂じゃないかなぁとか思います。
文調にばかり目が行っていて、肝心なものがあるのか分からなくなったので、
ちょっと、修行します。
目標にする公募新人賞一考。
・そもそも長編小説向きの文体でない(だから掌握が多いのです)
・純文学とエンタメ小説の狭間みたいな文体
以上から考えて、応募する文学賞なんかを考えているのですが......。
短・中編なら、
太宰治賞(純文学) 50~300枚と見事にほぼ純文。坊っちゃん文学賞がメインかなぁ。
すばる文学賞(純文学) 50~300枚
新潮新人賞(純文学) ~250枚(短編も可)
坊っちゃん文学賞(青春文学) 80~100枚
文学界新人賞(純文学) 100枚程度
文藝賞(純文学) 100~400枚
がんばって長編にチャレンジするのなら。
小説すばる新人賞(エンタメ) 200~500枚こんな感じかしら。野生時代青春文学大賞か小説すばる新人賞かなぁ。
野性時代青春文学大賞(エンタメ) 100~200枚
メフィスト賞(エンタメ) 350枚~
総合的に考えると、作風なんかも考えるとなぁ......。
すばる文学賞・小説すばる新人賞・文藝賞・坊っちゃん文学賞・野生時代青春文学大賞かなぁ。
後は、ダ・ヴィンチ文学賞もありっちゃあり。
枚数的にも題材的にも、坊っちゃん文学賞がとても魅力的なのですねぇ。
あと、狙ってみたいのは小説すばる文学賞と文藝賞。
取材を重ねている旅を題材にしている小説は坊っちゃん文学賞でほぼ決まり。
尺が伸びれば野生時代青春文学大賞という手もなきしもあらずだけど。
でも、内容的に、100枚を超えたらあんまり意味が無くなるというか、
ただ悶々としそうなのでちょっと。
あと、同じく執筆中の「拾いものの日常を」という作品はかなり純文寄りなので、
文藝賞・すばる文学賞を狙うのがスマートかなぁ。
150枚ぐらいになりそうな予感がしますが本当にエンタメと純文の境目の純文寄りなので、
純文学でも変化球好きのこの2賞がねらい目だと思っています。
長編になると次点で小説すばる新人賞かな。
すると。締め切りを確認......。
第11回坊っちゃん文学賞 2009年6月30日
第46回文藝賞 2009年3月31日
第33回すばる文学賞 2009年3月31日
と、言うわけで備忘録でしたー。
同人とプロ原稿
オリンピックよりも関心高い夏の某祭典も終り、ちょっと思ったこと。
同人の小説ってプロの小説と販促方がかなりちがうなぁと。
装丁が売れ行きに占める割合が大きいと思ったり。
リピーターの付く付かないは原稿の内容に依存する点はおなじなので、
本質は一緒なのだと思うのですが、特に文章系は固定ファンが少ない内は装丁が売れ行きに直結する気がします。
まぁ、声かけをするかとか同人の基本的なとこを除くと、
手にとってもらえるきっかけが文章系は極めて少ない。
手にとってもらえなければ文字系はその真価を判断してもらえない。
けど、ラノベと同じでジャケ買いが多いわけで。
多くの人に手にとってもらうためには、リピーターになってもらえる読者さんが大切なのですが、
そのために最初のきっかけが装丁なのかなと思ったわけです。
プロの世界には広告とかありますけど同人にはサークルカットぐらいなので。
制約がないようでたくさんの人にみてほしいのならテクニック的要素が強いのかぁと思い、
同人の難しさと楽しさを感じました。
締め切り守れました。
でも赤ばっかり。奥から昨日、今朝で作った第2稿、第3稿。
一番手前が名編集(笑)さんに指摘してもらったところをなおした第4稿。
ちなみに第1稿は手書き原稿。
名編集(笑)はダテじゃない。
やっぱり作品はある程度自分の作品を気に入ってもらっていて、
さらにずばずば文句言ってくれる人がいるとモチベーションも出来も変わってきます。
今度は長編を見てもらいたいなぁ(私信)。
そんなかんじでー。
ちょっと思ったことあれこれ。
覚え書き。
これといって意味があるわけでも、自身で思い悩んでいるわけでもありません。
悩んでいるのは、原稿用紙に息づくあのふたり。
にじりくる死を前にして、遺していく愛しい人に自分を憎ませる、 別れの準備に残された時間を費やすことが美徳に感じるのはなぜかしら。 にじりくる死を前にして、遺していく愛しい人から逃げたくて、 定めより前に自ら手をかけ死んでいくことになぜ狂気を覚えるのはなぜかしら。今手にしている日常を壊すのが怖くて、自ら放り出してしまうことと
今手にしている日常を壊すのが怖くて、自ら壊してしまうこととの間には、
どれほどの違いがあるのだろう。逃げることは弱いこと? 弱いことは悪いこと?
立ち向かう強さは良いもの?
諦めて、自分を騙すことは一番辛いこと?
続く未来を彼女と歩くその彼は幸せになれるのかしら。
文章という表現方法に対する雑感。
私の好きなイラストレーターさんに高野音彦さんがいるのですが、
絵を描くとき、音楽に対する嫉妬みたいなものが少なからずあって、と以前おっしゃっていたのを見て、考えさせられたのを思い出しました。
本当に良い音楽はたったの1フレーズでもなみだがでてくる。
そう云う絵って描けるだろうか。
絵もやっぱり、音楽と一緒で直感に訴えかけることができるので敵わないと思うことがあります。文章は、当然のことながら文字の連なりで、文字自体は記号に過ぎません(象形文字でも現代においてはそうだと思います)。
脳の中で音楽や絵よりも多層な処理がいるのかなと感覚的に思います。勝負する土台が違うといってしまえばそれまでなんですが、昨今の活字離れというのは音楽や漫画なんかに対して直感で感じ取ることが出来る、ある意味(感覚的な)簡単さ、取っつきやすさがないのかなぁと思います。
それでも文章にしかない魅力を提示し続けるのが文章家の仕事なのかしら。名文と呼ばれる文章にはいつも、そのフレーズの何十倍、何百倍の情報量を包有して登場人物の心情や色彩豊かな景色が迫ってきます。
そして、たぶんそれは文章にしかない魅力なのだと思います。
「頼りは文才、努力。」一昨日そんな言葉を作家の橋本紡さんから頂きました。このフィールドで闘うことを選んだ方の言葉には真理があるなぁと感じたのでした。
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