―Snownotes,三題噺-鬱・携帯・倒錯(恋愛もの)

 

-Contents-

Special Links(Novels)

 

 彼は、聞き慣れた携帯電話のメール着信音で、深い眠りから現実世界に呼び戻された。メールは彼女から。携帯電話を取ると、彼女はただ一言の言葉を届けてきた。口に出してしまえばほんの一瞬で、ともすれば聞き取れずに終わってしまう、絞り出したような一言を。
「たすけて」
最近よくあることで、彼は特に驚くこともせず意味を理解する。明かりを点すと、それでもまだ、薄暗い部屋で黙々と出かける支度を始めた。

 

  夜の帳が降りて久しい道を彼は黙々と歩く。何度目だろうか、彼女に死の発作が起きたのは。うつに苦しむ彼女だったが、彼は彼女を死の発作から何度となく救い出していた。まだ開花宣言を待つばかりの今にも花開いて咲き出しそうな、桜の木の下を通る。どんなことがあっても、ふたりはやってきた。彼には自負があった。自信があった。背中には微塵の迷いもなかった。ただ、狂おしいほどの彼女への愛がそこにはあった。
  程なく彼女の住むアパートにたどり着く。合鍵を取り出して中に入ると、そこには独特の空気があった。重く、暗い死の空気。甘い部屋の香りと全くそぐわないその空気にしかし彼は、それに嫌悪するどころか親しみを感じていた。彼女はベッドの上に座り無表情にたたずんでいた。ほうけた顔には幾筋もの涙の跡。手には握りしめられた携帯電話。手は彼の助けを待ち続けて震えていた。ベッドの周りはいくつもの物が放り投げられて、乱れ、ぐしゃぐしゃに荒れていた。目を合わせても、何か言葉を紡ぐわけでもない彼女の元に彼は歩み寄っていった。

 まず、何も言わず彼女を壊れるほど強く抱きしめて愛を注ぐ。さらに唇を重ね、静かに寝かせる。そう、いつもの様に。彼女に自分が居るから安心しろと諭す。すると彼女の顔に生が宿り、死の淵から戻って、安心した顔で眠りにつく。彼は彼女の傍に離れずずっと居て体温を絶えず注ぐ。そのうちに朝が来て、彼女はいつもの明るく聡明な彼女に戻る。「昨日はごめんね」とだけ言って朝のコーヒーを淹れて鼻唄まじりに二人の朝食を準備する。そんな彼女の姿にえも言われぬ満足感と幸福を感じながらコーヒーをすする――はずだった。
だが。今日は違った。彼女は彼が来るやいなや彼の両手を取り自分の首に持っていった。彼は戸惑いながらもその意味するところを悟り、軽く力をかけてみると彼女は妖艶に笑ったのであった。彼が今まで見たどんな彼女よりも美しかった。彼はその微笑みに震撼して手を離し震える。すると彼女はなにかを待つ様に目を閉じてじっと待った。もう一度、彼女の首にそっと手をかけると彼女はまぶたを閉じたままそっと頷いた。彼の知り得るもっとも幸せそうな落ち着いた表情で。手に徐々に力を込めていく。そう、ゆっくりと。彼の中で時は止まりかけていた。もう息をするのもままならないはずの彼女は、それでも微笑んだまま微動だにしなかった。ふたりは何を感じるわけでもなくその儀式に没頭していた。

  そして彼女は涙の跡もそのままに、微笑みながら死んだ。彼の中で時は進むのをやめた。

  彼は自らの使命を終えると彼女の体を丹念に清めた。彼女の肌の柔らかく、手に馴染む感覚に溺れるわけでもなく、ただ淡々と、だが、いとおしむ様に。まずは顔に残る涙の跡を、次は体を、隅々まで。それが終わると彼は自分の体を丹念に洗った。何度となく使った彼女のバスルームから出ると、部屋を整えた。彼女が死の発作の苦しみを散らすために無理やり放ったであろう物を一つ一つ拾い、彼の記憶にある部屋と同じ場所に戻す。彼女をいったん、ソファーに運び、寝具を整え、再び彼女をベッドに戻す。彼女の携帯電話をそっと彼女の頭の横に置くと、自分の携帯電話を取り、救急に用件だけを伝え、二人の亡骸が自然によって汚されない内に灰にする手筈を整えた。全ての準備を終えた彼は、台所に行き包丁を手にとって彼女の元に戻る。彼女の亡骸に柔らかくキスをした。目を閉じると手にした包丁を自らの腹に突き刺し、かつて武士がした様に十文字に切り裂いた。血が真っ白なシーツに飛び散り彼女の胸にもかかる。苦悶の表情を浮かべながら、彼は彼女をいつもの様に抱きしめた。そこに介錯はいるはずもなく、彼は自ら首を切り裂いた。清めた部屋に彼の血がそこらかしこに飛び散った。二人を包むシーツに、彼女がいつも抱いていたクッションに、目覚まし時計に、そこら中に飛び散った。彼の――あの微笑みに耐えきれず惑わされ、狂い、倒錯して残した、血の跡は二人にとっては神聖だった。窓から注ぐ朝日に照らされて、血はてらてらと鈍く光り、二人の亡骸は暖かい日差しにつつまれ始めた。

 

 道沿いの桜の間に一陣の風が通り抜ける。ほころびかけたつぼみが散り、ゆるやかに道路に落ちた。急ぎ走る救急車がそこに通り行き、そのつぼみは潰れ去って、花開く前に果てた。

 

 

ここまでお読みいただいてありがとうございました。

感想募集中です。よろしければWeb拍手お願いいたします

 

copyright(c) 2005- Yuu Katsura/ snownotes console All Rights Reserved.