喫茶店が入っている建物に入り、彼女から自分が見えないことを確認して電話を入れ予約を取り消した。思いの外すぐ終わってしまった。建物から出たはいいけど戻るには早すぎる。
どうしようかと迷っているうちに遠目に彼女を見つけた。彼女はじっと噴水の方を見つめていたかと思えば周りをきょろきょろと見てからふわりと立ち上がった。気付かれたかと思って一瞬ドキッとしたけどどうやら違うようだった。
挙動不審にまだきょろきょろしながら、とんとんとんっと小鳥のように軽やかに噴水に向かう。そして噴水の縁にしゃがみ込むと噴水の水をなぜるように手を動かす。そして少し手を上げると彼女の手から水がきらきらと光り落ちていく。それも繰り返し、繰り返し。
遠目ではよく分からないけど、水で遊んでいる? 確かめたくなって少しずつ彼女に近づいてみる。彼女の中で楽しさが増していくのかすくうだけでは飽きたらないようで、ぱしゃぱしゃと水を飛ばすようになっていた。
もう、周りの目も気にならなくなっているのか、ただ水と戯れる彼女。もう俺がすぐそばに立っていることにまだ気付かないようだ。
黙っているのも悪いからそろそろ声をかけようと思ったころ。彼女は急に手を止めたかと思うとハンカチを取り出し手を拭いた。それをしまうと屈んで今度は靴を脱ぎ始める。靴下も脱ぐと片方ずつ靴に入れ、そろえて噴水の縁に置く。突然の行為に出かかった声を飲み込んだ。
だけど、素足になった彼女がふわっと立ち上がった、ちょうどその時だった。彼女と俺の目が合ったのは。
その瞬間、ビクッと体を硬直させたかと思えば、今度はみるみるうちに顔を真っ赤にさせて手をぱたぱたと振り、
「違うのっ。これはね、あの……違うのっ」
と必死に訴えかける。もう途中から何を言ってるのか分からないぐらいしどろもどろになっていた。初めて見る彼女の姿だった。
それがぴたっと止むと、すっと視線が落ちて固まり、自嘲気味につぶやいた。
「祥司くんはおとなしくて静かな子が好きって、宮野くんに言ってたし。こんな子どもっぽい子やだよね……?」
ああ、そういうことだったのか。どこかで耳にした友達に適当に言った俺のタイプ通りの子を演じてた訳か。
「いや……、あいつに言ったのはただの理想で、あくまで理想だから今のお前みたいなタイプも嫌いじゃないよ」
「……やっぱり、“好き”じゃないんだ」
「いや、好き――」
もう、自分の方が訳分からなくなってきて、とっさに言いかけた言葉に彼女だけじゃなくて俺も驚いた。
「え、今なんて言ったの……?」
不安そうに見つめる彼女の目が自分の方の戸惑いを加速させる。それから逃げたくなって思わず視線を逸らしてしまったその時、ちょうど目に入った彼女の素足。無垢なその足を見た瞬間、“素顔のお前をもっと見ていたい”、一昔流行った歌じゃないけど確かにそう思った。――ああ。これが“好き”なのか。
「俺、夏来のこと好きだよ」
今度は彼女の目を逸らすことなくまっすぐに見て。
「ほんと? 無理しなくていいんだよ?」
どこか焦りを感じる彼女の声と、その瞳に映る緩ない不安の色。
「さっきみたいな子どもっぽい無邪気なところもあるお前が好きって気付いたから、だからありのままのお前の事が好きなんだ」
そう言うと、彼女は俺に初めて見せる満面の笑顔でこう言った。
「ほんとなんだ。……えへへ、ありがと。嬉しいな。」
彼女はちょっと照れくさそうにそれだけ言うと靴下と靴をはき始める。
「これから遊ぶんじゃなかったのか?」
イタズラっぽく聞く。
「うー……。周り見てよ。今日はもういいよ。恥ずかしすぎるから今度にする。」
確かに周りの好奇の視線が痛い。こんな人目を引くところで目立ちすぎたかもしれない。靴を履く彼女を急かしながらも、自分の中で“今度”という言葉に前までになかった安心と期待を感じて、一層彼女がいとおしくなる。
「履けたよっ」
「じゃあ、行くぞっ」
イタズラが見つかった子どものような楽しさ。
「嬉しいなぁ」
公園を出て少し行ったところで彼女が急に振り向いてそういった。
言葉通り本当に嬉しそうな彼女を見て、20分前にはあったどろどろとした不快感が消え去っていることにふと気付く。その代わりに幸せが満ちていることも。
結局、逃げるように公園を出た後はファーストフードで適当に昼を食べて、言われるままに彼女の買い物に付き合わされた。取り立てて何をしたわけでもない。ふたりとも飾ることを忘れてただありのままに時間を共にしたというだけだ。でも、彼女は終始ご機嫌な子どものように笑顔だった。
――そしてたぶん俺も。
日も暮れ、駅までの帰り道をふたりで歩く。
「空、きれいだね」
見ると、薄黒い雲が浮く靄のかかったような空が、柔らかい朱とそれに染まった夕雲に流れ変わっていた。不快だった風も夜風に変わりひんやりと気持ちよく俺たちの間を抜けていく。
「一番星はまだかなぁ?」
「もう少しじゃないかな」
「そっか。そうだよね」
満ち足りた顔で歩く彼女に、ふと気になって訊ねる。
「公園で俺が最後に“好き”って言ったとき、どうしてすぐ信じてくれたんだ?」
彼女は一層楽しそうに、「えへへ」と顔をほころばせ教えてくれた。
「私のこと、お前って呼んでくれたから。祥司くんが人になにか本気で言うときって名前で呼ばないでお前って呼ぶんだよ? 気付いてなかった?」
「……俺はお前って呼んだ記憶もない」
「後ね、照れてるときと優しいときはぶっきらぼうになるの。――今みたいに」
にこにことしながら言う彼女は、本当に俺の事を見てくれていたのだと思った。それだけ俺の事を好きでいてくれたのだとも。
「俺……、お前の事好きだ」
「うん。私も祥司くんのこと好きだよ」
なんとなく言いたくなって口をついた言葉にそれでも「好き」と即答してくれる彼女。
いつまで一緒にいられるか分からないけど、俺が好きなありのままの彼女と一緒にいられればいい、そしてもっとお前の事を知りたい――。今度は口に出すかわりに彼女の手に自分の手を絡める握り返される手の温かさが何より心地よくて、できることならもう離したくない、やっと見えてきた名前も知らない一番星にそう願った。
終(2008.8.12)
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